■ 医事紛争Q&A   (平成8年8月1日 北海道医報掲載)

「失敗した示談」
              北海道医師会 顧問弁護士 黒 木 俊 郎


私は地方の開業医ですが、ある患者の治療をしたところ、意外な後遺症が出たために、患者から責められました。診療に手落ちがあったとは思いませんが、患者が気の毒だし、地方のことですから人の噂になっても困るので、見舞金を渡し、示談書も取り交わしました。地元医師会には報告せず、もちろん日医の医賠責保険も使わず、自己資金で処理しました。ところが、半年後に患者がまた私のところに来ました。患者は、大都市の病院で診てもらったところ、手術をすれば後遺症が治ると言われたとのことで、「これから手術を受けるから、手術代を出して欲しい。」というのです。私としては、一度示談をした以上、お金を払う必要はないと思うのですが、私が拒否すれば、患者は怒るでしょうし、再びトラブルになることは間違いありません。どうすればよいでしょうか。



示談失敗の典型的な実例だと思います。締結された示談書も完全に有効とは考えられません。これ以上の失敗を繰り返さないために、一刻も早く弁護士に委任すべきです。


【質疑応答】

A医師:まず、示談とは、どういうものですか。

黒 木:示談とは、当事者が争いのある法律関係につき、互いに譲歩して争いを止めることを合意する一種の和解契約です。和解というと裁判所で訴訟事件の解決のために締結される裁判上の和解を指すことが多いので、裁判外の和解のことを世間では「示談」と呼んでいますが、これは法律上の用語ではありません。

A医師:示談が成立すれば、事件は解決するわけですから、患者は二度とお金を請求できないはずですね。

黒 木:当事者は、和解条項で規定された権利関係に拘束され、これに反する権利主張ができなくなるのが原則で、これを和解の「確定効」と言ます。これを明確にするために、示談書にも「当事者は本書に定める以外の一切の請求権を放棄し、今後いかなる事情があろうとも名目のいかんを問わず、何らの請求もしない。」というような権利放棄条項を入れます。ところが、交通事故の示談などでは、法律知識に乏しい被害者が十分な賠償金をもらわないまま安易に示談させられるケースもあり、示談の確定効をそのまま認めると不当な結果を招くことがあります。そこで裁判所は被害者救済のためにいろいろな理屈を付けて、確定効の例外を認める判決を出しています。

A医師:どんな場合に確定効の例外になるのでしょうか。

黒 木:大別すると次の三つに分類できます。
@公序良俗違反
 相手の窮迫、軽率、無知などに乗じて不当な利益を受けるような示談をした場 合は、示談を無効とする。
A錯誤
 和解の前提事実に錯誤がある場合、示談は無効とする。
B予想できない損害の増大
 和解当時およそ予想もできなかった損害が後日発生したような場合には、一律 に再請求を否定すると正義に反するので、例外的に和解後に発生した損害の再 請求を許容することがある。

A医師:今回の場合は、どれに当たりますか。

黒 木:もし、診療に過誤があったのに、過誤がないという説明をし、その前提で示談したとすれば、Aでしょう。 また、当時、手術の必要性を全く予想もしないで示談したとすれば、Bにも該当する可能性があります。

A医師:そうすると、いずれにせよ今回の示談は無効で、患者さんの要求は正当だということになりますか。

黒 木:そうなる可能性が大ですが、その結論を出すためには、弁護士が示談当時の状況を双方から事情聴取して検討する必要があります。ともかく素人判断は禁物です。

A医師:なるほど。先生が、早く弁護士に任せるようにと言われたのは、そのためですね。

黒 木:それだけではありません。弁護士に委任しなければ、質問者は患者からの要求に負けて手術代を支払うに違いありません。しかし、手術代を払ってあげれば、それで問題は解決すると思いますか。

A医師:いいえ、素人の私が見ても、今後ともいろいろな理由を付けて請求されそうですね。

黒 木:何より困るのは、示談後に別途金銭を支払うことは、和解の確定効を自ら否定することになりますから、すべてが白紙に戻ることです。しかも、後遺症が手術によって完全に治れば、後遺症の補償請求は消えますが、休業補償、入院慰藉料、入院諸雑費などの請求が残ります。また、手術をしても後遺症が完全に治らなければ、上記の損害のほかに後遺症による逸失利益と後遺症慰藉料の請求が出てくるでしょう。

A医師:すると、お金を払うとかえって問題をこじらせることになるのですか。

黒 木:その恐れがあります。質問者は、患者が気の毒なので見舞金を出したとおっしゃっています。しかし、世の中でお金を出すことくらい難しいことはないのです。医師と患者の関係で金銭を出すと、治療上の手落ちを暗黙のうちに認めたと解釈される傾向がありますから、これで最終解決になるという確実な見通しがない限り、お金を払うべきではありません。

A医師:質問者の先生は、どうすればよかったのでしょうか。

黒 木:第一の失敗は、医師会の医事紛争処理委員会や弁護士に相談することなく示談したことです。人の噂になっても困るという心理から、地元医師会にも報告せず、日医の医賠責保険も使わずに示談を急いだお気持ちは分かりますが、示談は、重要な法律事務ですから、医事紛争処理委員会が関与しないのなら、せめて弁護士に示談を依頼するべきでした。
 第二の失敗は、診療上の過失の有無について十分検討することなく示談したことです。質問者は、「手落ちがあったとは思いません」と言っておられますが、この点については、第三者の専門医や法律家の判定を仰がないと安易に結論は出ません。そこで、日医の医賠責保険では、医師や弁護士で構成する賠償責任審査委員会が医療事故の当事者である医師の報告書だけでなく、地元医師会や都道府県医師会の見解も参考にして多方面から検討して有責、無賃の判定をしているのです。
 第三の失敗は、相手の損害の全貌について十分把握しないで、示談金を決定したことです。手術をすれば後遺症が治るということが、示談後に分かったとのことですが、後遺症が固定したことを確認してから示談すべきでした。しかも、患者側からの具体的な金額の請求もないままに、質問者の方で一方的に見舞金の金額を提示して示談しているので、金額の積算根拠が不明です。従って、損害賠償に関する示談としての効力が認められない恐れがあります。

A医師:示談といっても結構、難しい問題があるんですね。

黒 木:医事紛争処理は、一つの法律事務です。医師の善意と常識だけでは解決できません。速やかに弁護士か医師会の医事紛争処理委員会に委任することが大切です。