■ 医事紛争Q&A (平成8年8月16日 北海道医報掲載)
「虫垂炎の誤診」
北海道医師会 顧問弁護士 黒 木 俊 郎
Q
私は内科医ですが、下腹部の腹痛と下痢を主訴とする患者に感冒性胃腸炎の診断をして入院治療していたところ、五日後、上腹部痛が発現、腹痛増強、白血球増多を認めたのでエコー検査をしたところ、虫垂炎が穿孔し、既に腹膜炎を起こしていました。すぐ外科で手術の結果、一命は取り留めましたが、患者は退院後、私の誤診を非難し、弁護士を立てて多額の賠償金を請求してきました。私としては、結果的に虫垂炎を早期に診断できなかった非は認めますが、初診時には、虫垂炎の典型的症状が出ておりませんので、虫垂炎と診断するのは無理だと思います。こんな場合でも、損害賠償を払う責任があるのでしょうか。
A
先生が下した感冒性胃腸炎の診断は、結果的に誤診だったことになりますが、誤診イコール過失ではありません。従って、誤診があったからすぐ損害賠償の支払義務があるということにはなりません。診断時点での症状など当時の情況から、感冒性胃腸炎を疑うに足る合理的な根拠があれば、初診時の診断は正当であり、逆に、虫垂炎を疑うに足る合理的な根拠が欠けていれば、虫垂炎を見逃しても過失はないと判断されます。
しかし、過失の有無(有責、無責)の最終判断をする権限は、裁判所にあります。従って、本件についても医学的観点のみならず法的観点からも十分検討し、裁判所が将来どういう判決を下すかを予測して、賠償請求に対する方針を決定する必要があります。
【質疑応答】
A医師:初診時には、虫垂炎の典型的症状が出ていませんから、今回のケースを誤診と決めつけるのは、酷だと思いますが・・・
黒 木:それは、誤診という言葉の使い方の問題ですね。医学界では、感冒性胃腸炎を疑うに足る所見があれば、その診断は正しく、誤診ではないと考える先生が多いようですね。ところが裁判所では、事後の経過や解剖結果などから判明した事実と最初の診断病名との間に観部がある場合、診断病名は誤っていたことになりますので、これを誤診と呼んでいます。本件でも虫垂炎を感冒性胃腸炎と診断していますから、たとえそれがやむを得ないものだったとしても、誤診ということなります。
A医師:たとえ「誤診」だとしても、虫垂炎の典型的症状がない以上、虫垂炎を疑う根拠はありませんから、医師無責だと思います。下腹部痛と下痢があれば、私でも胃腸炎と診断します。
黒 木:ところが、裁判では、そう簡単に許してくれないのです。質問者は、虫垂炎の典型的症状がなかったと言っておられますが、患者側弁護士は、その点に強く疑問を提起するでしょう。そして法廷では、本当に虫垂炎を疑うべき症状が全くなかったのか、医師が懇切丁寧な診察を怠ったために虫垂炎の症状を見逃していただけではないか、たとえ初診時に所見がなくても五日間もの長時間の経過の中では、当然何らかの所見があったはずであり、緻密な経過観察をしていれば、虫垂炎が穿孔して腹膜炎を起こす前に発見することができたのではないか・・・など、あらゆる観点から検討されます。
A医師:すると、そのような疑いを全部晴らして初めて医師無責と認められるのですか。
黒 木:そうです。ですから、医学的観点のみならず法的観点からも十分検討し、患者側弁護士さんの攻撃を乗り切る自信がある場合に限って,賠償請求を拒否するべきです。勝訴の確信が持てない場合には、弁護士を立てて示談に持込む方が賢明でしょう。