新・医事紛争Q&A(北海道医報 平成18年11月号掲載)
第2回 「刑事医療過誤事件の動向」
北海道医師会 顧問弁護士 黒 木 俊 郎
医療訴訟担当弁護士 坂 本 大 蔵
Q 当院で発生した患者取違え事故について相談します。看護師が,入院患者Aさんを手術予定の患者Bさんと取り違えて,手術室に運んでしまい,麻酔科医もきちんと確認しませんでした。執刀医の私も麻酔導入後に手術室に入りましたが,当然Bさんだと思ってAさんに手術をしてしまいました。Aさんが警察に被害届を出したため,看護師だけでなく,私も取調べを受けています。私が刑事責任を問われることはあるのでしょうか。
A チーム医療においても,手術時の患者の同一性確認は基本的な注意義務と考えられます。また,執刀医は手術について最高かつ最終の責任者と考えられますので,執刀医が業務上過失傷害罪の責任を問われる可能性が大と思われます。
しかし,民事で示談が成立すると,刑事でも不起訴処分(起訴猶予)となるか,起訴された場合でも執行猶予の判決が期待できます。従って,Aさんとの示談を急ぐ必要があります。
【質疑応答】
医師会のA理事:まず,刑事医療過誤事件の動向について教えてください。
弁護士:刑事医療過誤事件は年々増加傾向にあります。昭和45年から平成11年1月まで30年間の刑事裁判件数は137件(年平均4.5件)でしたが,平成11年1月から平成16年4月までの約5年間では79件(年平均15件)に増えています。(飯田秀男弁護士の調査)
A理事:急激な増加ですね。
弁護士:この数字は起訴された事件だけです。刑事事件として捜査が開始された事件はその数倍もしくは十数倍はあると推測されます。
A理事:増加した理由は何でしょうか。
弁護士:平成11年1月の横浜市立大学病院手術患者取違え事件,都立広尾病院における消毒液の点滴注射事件,慈恵医大青戸病院における腹腔鏡下手術事件など立て続けに重大な医療過誤事件が起きて警察が介入しました。そのため,他の医療事故でも患者側が積極的に告訴や被害届を提出するようになり,警察が捜査せざるを得なくなったためと思われます。
A理事:福島県立大野病院事件では医師が逮捕されましたね。
弁護士:きちんと定職につき逃亡の恐れがない医師を,警察が安易に逮捕するのは由々しき問題です。大野病院事件では,証拠隠滅の恐れがあるという理由で逮捕したようですが,真の目的は自白させるためだと思います。このような逮捕は,自白を強要するに等しく,医師会としても大いに抗議しなければなりません。
A理事:今回の相談事例では,チーム医療における患者取違えの責任が問われていますが,私は患者の確認は看護師が行うものだと思っていました。チームで行う以上,患者の確認まで医師が行う必要があるのでしょうか。
弁護士:チーム医療における責任のあり方については,裁判上も議論があるところです。チームを組む場合,他の医療スタッフが適切に行動すると信頼しなければ,仕事にはなりません。そのような信頼は一定の限度で保護されるべきです。横浜市立大学病院事件では,裁判所は,他の医療スタッフが適切に行動すると信頼してよい事項と信頼せずに各自が確認しなければならない事項とがあり,患者の確認は手術関与者全員にとって初歩的かつ基本的な注意義務であるから,後者に当たるという判断を示しています。(東京高裁平成15年3月25日判決参照)
A理事:相談事例でも,執刀医は麻酔導入後に入室していますし,その時点で再び患者の確認をすることは通常しませんが,それでも執刀医は刑事責任を負うのでしょうか。
弁護士:横浜市立大学病院事件でもその点が問題になりました。裁判所は,執刀医は手術について最高かつ最終の責任者であると判断し,執刀医の責任を認めました。医療現場の慣行では,執刀医は麻酔導入後に入室することが多いと思われますが,医療現場の慣行と法的責任とは別のものであることを示したという意味で横浜市立大学病院事件の判決は重要です。
A理事:我々も医療現場の慣行に従っているからといって責任を免れるわけではないのですね。
弁護士:そのとおりです。
A理事:ところで,警察から「捜査のため出頭するように」と言われた場合,弁護士に相談する必要はありますか。
弁護士:刑事捜査は性悪説の世界です。性善説の世界で仕事をしている医師・看護師は,捜査に対して免疫がありませんから,簡単に不利な調書に署名させられたり,虚偽の自白に追い込まれます。まさに「赤子の手ひねり」です。
これを防ぐためには,一刻も早く,弁護士の助言を求めるべきです。
A理事:警察の取調べは診療時間中に行われるので,診療業務に差支えがあります。出頭要請には必ず応じなければならないのでしょうか。
弁護士:業務に差支えがある場合には,出頭を拒むことができます。また,必要があれば,取調べの途中でも帰宅することができます。(刑事訴訟法198条参照)
A理事:捜査官に対して自分の言い分も言えない医師も多いと思います。
弁護士:医療関係者は責任感が強いので,事故の責任を感じて罪を認めてしまう傾向があります。しかし,死亡等の結果を発生させた結果責任と法的な責任とは異なりますので,法的責任の有無については,弁護士と相談する必要があります。
A理事:相談が遅くて困ったことがありましたか。
弁護士:ある医療事故で院長や看護師が無罪を主張しましたが,警察は全く聞く耳を持たず,院長は憔悴していました。その時,検察官から「罰金で済ませるから,罪を認めたらどうか。」と言われ,取引に応じる寸前まで追い込まれました。その時点で初めて私に相談があり,私は直ちに関係者を集めて取引に応じないよう説得しました。その後,懸命の弁護活動の結果,病院の主張が認められ,院長以下全員が不起訴となりました。
A理事:もし,取引に応じていれば罰金ながら有罪になった事件が,弁護士に相談した結果,刑事裁判にもならずにすんだというわけですね。
弁護士:その通りです。手遅れにならないうちに弁護の依頼を受けましたので,最善の結果となりました。
A理事:まさに,天国と地獄ですね。しかし,捜査や裁判の煩わしさを考えると,我々医師は,罰金を払っても早く終われるならいいかと考えがちです。
弁護士:本人が有罪だと思うのならそれでもよいのです。しかし,本当は無罪なのに,罰金ならいいかと有罪を認めるような安易な方針は,絶対にお勧めできません。その理由は,次の通りです。
@罰金刑も刑事罰ですので,前科一犯となります。
Aこれが悪しき先例となって,次の同種事件で他の医師が自白を迫られることにもなります。
Bたとえ罰金でも有罪判決が確定すると,医道審議会にかかり,医業停止等の行政処分を受ける可能性があります。平成18年に医療過誤が原因で行政処分を受けた医師のうち,医療過誤刑事事件で有罪判決を受けた医師は10名でした。これは過去10年間で最も多い数字です。有罪判決を受けた医師に対する行政処分は,今後も増加することが予想されます。